中井久夫さんの戦争と平和へのメッセージ。ステキだ!
<戦争こそ最大の人災 老いに学ぶ:中井久夫さん(79)精神科医>
2013年8月16日 毎日新聞大阪朝刊
神戸大学名誉教授の精神科医、中井久夫さん(79)は異能の人だ。統合失調症の治療・研究で大きな業績を上げ、同時に、示唆に富み味わい深いエッセーは愛読者が多く、豊かな語学力を生かしてギリシャ語詩集の翻訳出版までしてしまう。さらに阪神大震災では、被災者や地域コミュニティーのメンタルケアのために要の役割を果たした。幅広く奥の深い才能はどう養われたのか。基礎になったという戦争体験について、語ってもらった。【編集委員・鈴木敬吾56歳】
◇日常だった理不尽と空腹
人生を振り返り、これに勝る喜びはないと思えること……。1945年に戦争が終わったことでしょう。
生まれた時には、もう大陸での戦争は始まっていました。物心がつくようになってからは、父が戦争に行ってしまうのではないかと不安でたまりませんでした。阪急の社員だった父は予備役の陸軍主計少尉で、召集される可能性があることを子ども心に分かっていたのです。日中戦争が始まると、心配していた通り、父は応召し、兵庫県伊丹市の家で祖父母と母との生活が続きました。
一人っ子で、大人に囲まれて育ったので、大人びた子どもになったのでしょう。川崎造船所(神戸市)の潜水艦部長を務めていた大叔父の家に行くと、書斎でイギリスやドイツの造船の本を眺めて過ごし、小学校に入ると、無理を言って大人向けの海軍関係の本を買ってもらいました。
「造船技師になりたい」と言っていましたが、「軍国少年」ではなかったですね。アメリカとの戦争が始まった時は小学2年でした。日米の戦力差が大きいことを知っていたので、学校の昼休み、勝利に浮かれる級友たちに「笑いごとじゃないぞ」と言ったことを覚えています。誰も気にも留めませんでしたが。
内地勤務だった父は、最後は南太平洋のブーゲンビル島にまで行っていました。マラリアを病み、敗戦の前年、奇跡的に病院船で帰国しました。痩せて別人のようでした。私が一人で庭に掘った防空壕(ごう)を見て、「こんなもの何の役にも立たん。麦畑にでも逃げて運に任せるしかない」と笑い、最前線で体験したアメリカ軍の空襲の激しさや、軍紀の弛緩(しかん)、将校の横暴まで語ってくれました。
敗戦の年は小学6年でした。
前年末に祖母が脳卒中で急死すると、祖父は相当に落ち込んだようです。7月の激しい空襲があった日、「死ぬから遺言を書き取れ」と、父宛ての遺言を私に書き取らせた後、食を断ち、5日後に死にました。祖父は陸軍士官学校を出て日露戦争には大隊長として二〇三高地の戦いにも参加した人でした。胃の持病もありましたが、敗戦必至の状況の中で、日本の無残な最後を見たくないという思いもあったかと思います。
祖父は72歳でした。老衰とも言えますが、根底には栄養不良がありました。敗戦の年になると、地域の老人はみるみる死んでいきました。
戦争の思い出を一つだけ挙げろといえば、空腹です。
8月15日の「玉音放送」は聞いていません。家のラジオが15日朝から故障してしまったからです。「正午から重大放送」という連絡も届いていませんでした。しかし、15日の昼過ぎ、家を出ると、隣家のざわめきなどから、何かがあったことは分かりました。こんな時、子どもがすることは一つ。学校に行きました。
無人の教室に入ると、黒板の右端にいつも書かれていた「神州(しんしゅう)不滅」が乱暴に消されていました。「戦争に負けたんだ」と気付き、同時に、「大人はやっぱりこういうことをするんだ」と嫌な思いがしました。
敗戦と聞いて、まず思ったのは、これで中学に行けるということと、大日本少年団が無くなるということでした。前年の中学入試は学科試験がなく、体育と面接だけでした。運動音痴で「敢闘精神」に欠けた私はとうてい通らないとあきらめていました。ヒトラーユーゲントをまねて作られた大日本少年団は、鍛錬という名でいじめを公認している組織でした。私がいじめられることは少なかったですが、友だちがいじめられるのを見るのがとてもつらかった。
敗戦でこうした理不尽なことがなくなるだろうと感じました。
◇「敵国」への侮辱、止めた先生
敗戦の翌年春、旧制甲南高校(7年制)に入学しました。どんな学校かは知りませんでしたが、初めて甲南に行った時、「甲南学園」と横書きされた板が正門にさりげなく掲げられていたのを見て、うれしく思いました。いかめしい門柱ではなかったからです。甲南の教育はまさに自由でした。甲南に行かなければ、もっと堅苦しい人間になっていただろうと思います。
しかし、当時、中学に進学する人は少数で、ほとんどの人は小学校高等科に進みました。例年、卒業式の後に高等科に行く人が中学進学組を殴る儀式がありました。「これから社会に出れば、もう殴ることはできないからだ」という理由でした。用心して早く帰ってしまいました。
また、級長を務めていた友だちが自殺しました。勉強がよくでき、中学進学を希望していたのに、親が許してくれなかったのです。彼の家は小作農でした。「すぐ働いてもらわないと困る」と言われたそうです。
社会に「階級」があるのだということを痛みとともに感じました。
最悪の人災が戦争です。私にとっても戦争はひどい災厄でしたが、一つだけ良い思い出があります。
小学校の校庭の隅に敵兵に見立てたわら人形を据え、子どもたちに竹やりで突き刺させていました。当時はとにかく「鬼畜米英」でした。しかし、わら人形に巻いていた米英の国旗を子どもたちが引き裂こうとすると、一人の先生が「一国の尊敬を集めている国旗を侮辱してはだめだ」と叱責し、やめさせたのです。敗戦間際のことでした。あの時のふるえるような感動は今でも忘れることができません。
年齢が増えるほど時間は早く過ぎるという感覚を持つことは、小学生の時に気付きました。小学校の後半は前半ほど長くなかったのです。以来、時間はどんどん短くなっていましたが、今、その感覚はどこかに行ってしまいました。
それは2007年に、兵庫県こころのケアセンターのセンター長を退いたころからでしょうか。退職と同時に臨床を離れました。診察の場がなくなったという事情もありますが、体には年相応の変化が起きていますから仕方がありません。さびしさも感じることもありますが、診察の感覚はまだ生きているので、臨床体験を書くことにとどめています。
詩の翻訳や依頼原稿の文章を書いている時、あるリズムがよみがえってくる時があります。そのリズムの流れの上に体の中の言葉を乗せていくのです。80歳の人間が感じる時の流れの中で、この時間を大切にしています。
■人物略歴 ◇なかい・ひさお
精神科医。神戸大学名誉教授。
1934年奈良県天理市生まれ。京都大学医学部卒。名古屋市立大学医学部精神科助教授を経て80年神戸大学医学部精神神経科教授。97年甲南大学文学部教授。2004年兵庫県こころのケアセンターセンター長。
統合失調症研究の第一人者。神戸大教授時代に発生した阪神大震災では、全国から集まった精神科医や看護師を組織して、救護所、避難所などを巡回するなどして被災者の心のケアに尽力したことで知られる。また、被災者がかかえるPTSD(心的外傷後ストレス障害)などの問題に長期的に対応することが目的の、兵庫県こころのケアセンター設立にも中心的役割を果たした。
ラテン語、ギリシャ語などにも通じた語学力を生かし、精神医学の専門書を多数翻訳するほか、詩の翻訳も手がけ、ギリシャの詩人カヴァフィスの全詩集翻訳で、89年読売文学賞受賞。多くのエッセー集も出しており、96年『家族の深淵』で毎日出版文化賞受賞。近著は『「昭和」を送る』。
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